牧草地から北極山羊が逃げ出さないよう石を積み上げて作った塀の
直ぐ上あたりにその人物は浮いていた。
ニナは館の庭に出たところで、夫がそのローブの人と睨み合っているのを見た。
「あッ?」
「ご無沙汰ねニナさん」
「ニナッ!コイツを知っているのかッ!?」
その相手は大きく歪んだ笑みを浮かべた。
勿論ニナはそのオトメを知っていたが、
彼女が纏っているローブはニナが知るあのローブではなかった。
淡いすみれ色の飾り気のないローブ。
トモエは牧草地に降り立った。
ニナにとっては他の誰よりも質の悪い相手だった…。
けれど、もうなり振り構ってはいられない。
例え地面に額をこすりつけても、足を舐めてでも娘の命乞いをするのだ…。
「ニナさん。あなたの遺骸が利用されないように完全に焼き尽くすために来たわ」
「それと、その子も一緒に」
トモエには以前のような虚勢や虐待し好を感じさせる処が微塵もなかった。
ただ必要なことを無駄無く実行する。
とても真摯な姿勢にさえ見えた。
たが、それはニナにとっては最悪の状況を意味した…。

ガキンッ!
鈍い金属音が響いた。
後ろから静かに近づいたセルゲイが大きな鋤でトモエに殴り掛かったのだ。
だがトモエは瞬きもせずに、それを左手一本で受け止めた。
万力で押さえつけたように鋤は空中に静止しビクともしなくなった。
セルゲイは鋤を放して今度は素手て殴り掛かった。
「お父様止めてーーーーーーーーーーーー」
ニナはそう叫んでしまった。
セルゲイは凍りついたように止まり、お陰でトモエの反撃を浴びなかった。
トモエはセルゲイまで殺せとは指示されていなかったのだ。
以前の彼女なら間違いなく先にセルゲイを手に掛けただろう。
…随分変ったのね…
ニナは古い友人の心境の変化に驚くと同時に、
セルゲイに対して自分たちの過去についての決定的な嘘を曝け出してしまったことに、
暗澹たる気持ちだった。
…でも、もうどちらでもかわりがないわね…
…彼は殺されないと判っただけでも…
ニナは覚悟を決めた。
…どうあってもこの娘だけはと思っていたけど…
以前のトモエならば取り入る隙があったかも知れないが、
いまその表情は、全く揺るぎないものだった。
ニナの決意を読み取ったトモエは静かに草原を歩み出した。
「や、止めてくれェ」「ニナが何をした」「殺すならオレを殺せ」
セルゲイの叫びは悲痛だったが、トモエは一切関心を払う事無くニナに近寄って行く。
ニナは娘を抱き締めて目を閉じた。

「待てよ!ゴラァ」
その怒声にトモエはチラリと視線を上げた。
「人のシマで何勝手なことしてんのョ?」
趣味の悪いローブを纏った柄の悪い五柱が、館の屋根の上に腕組みをしてトモエを睨んでいた。
トモエが視線をニナに戻し、ナオを無視してエレメントを振り上げた時、
目の前のニナが消えた。
忽然と。

ナオは蒼天の速度に賭けたのだ。
トモエの注意を引けるのは本当に一瞬だけだろう。
セルゲイとトモエのやり取りをちらっと見てそう判断した。
トモエは大戦の頃とは全く違うオトメと考えるべきだ。
直ぐにシズルも来る…。
声を発するタイミングだけをアリカと打ち合わせて、
二手に分かれ地上を走って館の裏手へと回り込んだ。

ニナは自分が牧草の穂先に触れるほど地上の近くを超高速で飛行してることを知った。
娘は火がついたように泣いている。
自分と娘を抱えて飛んでいるのは、あまりにも懐かしい人だった。
「ア・リ…」
もう声にならない…。
目から涙が止めどなく溢れるのは強烈な風圧のためだけではなかった。
うねりながら続く丘陵地帯がどんどん後ろへ流れている。
「まだ気を抜かないで!シズルさんが来てるんだ」
久々に聞く友の声はとてもハスキーで大人びていた。






        
 

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感想は後で纏めてさせて頂きます。


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