父親に出来る事は、微笑んで覗き込むことだけ…。
母親の乳房に吸い付く我が娘のあまりに小さなその唇。
柔らかく艶やかな宝石のようだ…。
この娘の生まれたあの嵐の日にやって来た不吉な避雷針売りのことは、ニナには話していない。
だいたい、この北部辺境伯領の田舎郷士の一家に
どうしてヴィントの王から援助の申し出があるというのだ。
華やかで知られる中原の、その中心地であるヴィント王国。
その王とアルタイ北辺の寒村の郷士の間に繋がりなどあろうはずもないではないか?

しかし、そう思いつつもセルゲイにはほんの一片の疑念があった。
妻のニナはセルゲイの過去について彼自身が知らない事を知っている…。
彼は5年前の事故で記憶に障害を受け、それより前のことをほとんど覚えていないのだ。
ニナが献身的にその彼を支えて今日まで何とかやって来たのだが、
彼女が語るセルゲイの過去は、どうも断片的で一貫性に欠けている。
これほど、自分に尽くしてくれる若い妻を疑うことは忍びなくて、
あまりその事を深く追求するのは控えて来たのだが、
こうしてふたりの間に娘を授かってみると、妻の幼いとさえ言える『若さ』そのものが、
セルゲイのなかで違和感を大きくしていることも間違いなかった。

彼女自身の言葉によると、ニナは今年で21歳になる。
だとすれば、セルゲイが事故後の昏睡状態から目覚めゆっくりと回復を始めたころ、
彼をまるで子猫を舐める母猫のように看護していたニナは僅か15-6歳だったということになる…。
その年齢で既に彼の妻であったとニナは言うが、いくらなんでも結婚するには幼すぎるだろう。
しかし、その時のセルゲイはあまりにも弱い重傷の怪我人であったため、
自分を守り看護してくれる人を拒むことなどは不可能であった。
そして、そのまま彼はニナの夫である事を受け入れた。
隣家まで1時間も歩かなくてはならないこの館で、ふたりきりの暮らしをしていれば、
話の上での夫婦から実際の夫婦になってしまうまでには、さして時間はかからなかった。

だが、彼の記憶のなかでは初めての、ニナとのその夜の出来事はあまりにも異様であった。
セルゲイはまるで奪われるように押さえつけられたまま事が済んだのだ。
掴まれた肩には爪が食い込んだ。
まだ身体の自由はとても完全とは言い難い状態の時だった…。
ふたりが果てた後、ニナが嗚咽を押し殺していることに気付いた。
やがてセルゲイの頬に暖かい涙の雫がかかる。
真っ暗な部屋の中に一瞬だけ差し込んだ満月の光が、そのニナの顔を幽かに浮かび上がらせた。
その時、ニナは泣きながら笑っていた…。
とても恐ろしい笑顔だった。
昼間の優しい笑顔とはまるで違う…。
執念を肚に飲んだ者の顔だった。
その翌日から、ニナは前にも増して朗らかになり、さらによく働くようになった。

それから4年あまり…。
文字通りふたり力を合わせてこの人里離れた辺境の地で暮らして来た。
開墾した農地や牧草地も漸く収穫を上げ始めている。
そして、いま、宝石のような娘を授かった。
…これ以上、他に何が要るというのだ?…
素朴な田舎郷士の若い父親である彼はそう思うのだが、
セルゲイの中にいる何者かが『このままでいることは赦されない』と囁くのだった…。

ニナは、怖いくらいに満ち足りていた。
この先何があっても、もう悔いは無いだろう。
決して手に入れる事は叶わぬと思っていたモノを手に入れたから…。
科人(とがにん)である自分とセルゲイには望むべくもない幸せ。
だが、それをニナに赦してくれた人のこと思うと胸が痛んだ。
…もう隠しようが無くなりました。あなたにも累が及ぶことは避けられません…
…ナオお姉様…
北部方面を受け持つ五柱。
ジュリエット・ナオ・チャンはニナが身籠った事を秘密にしてくれた。
ナオは月に一度は旅の薬売りを装ってこの館を巡視していた。
勿論、ニナの身体の変化を見落とすような人ではない。
ただ、まるでそんなことは見えませんとでも言うように優しく無視してくれたのだ。
あくまで旅の薬売りとして振る舞って、セルゲイに過去を思い出させるようなこともなく。
そうして、ナオが守ってくれていなければ、この娘は生まれて来る事を赦されなかったに違いない。
自分のことを条約機構本部に報告しなかったことで、ナオはどうなってしまうのか?
ニナには想像もつかなかった。
だが、感謝を言葉や形に表すことは赦されなかった。
自分からナオを危険に曝すようなことは出来るはずも無いのだから、
ただ、心の中で手を合わせるのみだ…。

我が娘が力強く乳を吸う痛みは、身震いするような喜びをニナにもたらした。



        
 

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感想は後で纏めてさせて頂きます。


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