(う〜……むしゃくしゃする…) 階段を足早に昇る。 目的地はあそこしかない。 最近めっきり足を運ばなくなっていたあの場所へ、今は無性に行きたかった。 がちゃ…と音を立てて古く錆びれた扉が開く。 赤髪を梳く風は少し冷たかった。 事の発端は今日の朝。 いつもより少し早めに登校してきた奈緒は、借りていた本を返すために図書室へ向かっていた。 「結城さん」 今日は特に新しく借りていく予定は無かったので、返却手続きを終えた奈緒は、 さっさと図書室から出ると、教室へと向かおうとした。 その時、とある男子に呼び止められたのだ。 「…何?」 「今少し時間貰える?」 「…手短にお願い。朝はあんまり機嫌良くないんだよね」 (はぁ…) 何故こんなに気持ちが憂欝なのか。 こんな事言われたのだって別に初めてじゃないのに。 そしてその度、そっけなく断ってきたのに。 それなのに何故か、今日はそうする事が出来なかった。 「結城さんて好きな人とかいるの?」 「はぁ?そんな事何であんたに話さなくちゃいけない訳?」 「俺が…君を好きだから」 多分クラスメイトだったと思う。 自分が興味の無い相手の事は覚える事すら面倒臭い。 多くの人と無闇に関わる事を奈緒は故意的に避けていた。 しかし最近ふと気付く。 自分が興味の無い相手の事は覚える事すら面倒臭い。 ただ、自分が興味がある人には全く深入り出来ない。 人間に裏切られる事に奈緒は酷く敏感だった。 「悪いけど」 「…理由を聞いてもいいかな」 「あたしがあんたを好きじゃないから」 「…他に好きな人がいるのかい?」 「…」 この場合、黙する事は肯定となる。 ただ、そう思われる事は百歩譲って許すとして、 自分の口から“そうだ”と認める事はどうしても出来なかった。 髪を梳く風が通り抜けて空へ還る。 繰り返されるそれを感じながら、今何時だろうとふと思ったが、 同時に、それはどうでもいい事だと気付く。 今日はもう授業に出る気は更々無かった。 付き合いたい、と思った事は無い。 好きかどうかも曖昧な自分の感情。 それを持て余している今、奈緒にそんな余裕は無かった。 (…でも) 彼にはっきり“好きな人はいない”と言えなかったのは初めてだった。 がちゃ…。 びゅう…! 屋上の扉が開かれて、滞留していた風は一気に横を通り過ぎていった。 ばっと振り向いた奈緒の目いっぱいに映ったのは長い綺麗な舞う黒髪。 「風強いな…」 錆びれた扉を後ろ手で閉めると、勢いある風は幾分納まった。 「何で…」 「え?」 「…」 何故よりによってこんな時に。 一番会いたくないあんたが。 「何であんたがここにいるのよ」 「居ちゃ悪いか」 「授業中じゃん」 「それをお前に言われたく無いな」 口を開けば憎まれ口しか出てこなくて。 本当に腹が立つ。 「…ちょっと」 「ん?」 「何隣に座ってんのよ」 「悪いか」 「悪い」 「何で?」 「…」 何で…だろう。 「すぐ行くから少しだけ許せ」 「………仕方ないわね」 すぐ行くんだ…。ふぅん。 「…」 奈緒は気付いているのだろうか。 まぁ勘のいい彼女の事だから、とっくに気付いているだろう。 自分の気持ちなら尚更か。 どうして今日に限って彼にはっきり言えなかったのか。 ―――それは自分も片思いの辛さを知ってしまったから。 どうして“好きな人はいない”と告げられなかったのか。 ―――それは自分に心当たりがあったから。 全ての理由はただ一人。 「…玖我」 「何だ」 「…風…気持ちいいね」 「…あぁ。そうだな」 でももう少しだけこの想いを認めなくてもいいだろうか。 こうしてこのくらいの距離で。 近すぎず、遠すぎず、この絶妙な距離で。 彼女の隣にいたいから。